高校時代の運命の一言。将来の夢が漫画家だった僕が演劇の世界にのめり混んでしまった理由。

こんにちわ。11月22日放送の「ハイサイ探偵団の9時にラジオやってみた」の悲報朗報のコーナーでネタを紹介していただいた川口俊和です。うっかり本名で投稿してしまいました(笑)

さて、前回のブログで「週刊少年ジャンプで鳥山明先生のDr.スランプアラレちゃん」を読んで本気で漫画家を目指す気になったことを書いたのですが、今回は、その漫画家を目指していた僕が、なぜ、漫画家を目指すのを辞めて、芝居の世界に入ったのか?という所を詳しく書きたいと思います。

前回のブログはこちら→「大工になりたかった僕が小説「コーヒーが冷めないうちに」を書くことができたのは、子供の頃に初めて買った週刊少年ジャンプとの出会いにあった。」

まず、僕が演劇という世界に関わるきっかけになったのは、高校二年生の時でした。もちろん、高校時代は漫画家になる気満々でしたから、演劇というものに興味はなかったのですが、ここで青臭いドラマが起きるんです(笑)

実は、当時、僕はクラスメイトのある女子に恋心を抱いておりました。とても、とても甘酸っぱい思い出でございます。はい。もう、察しの良い読者の皆様はお分かりになりましたね?そうです。その女子が演劇部だったのです。

僕はなんとか他の男子を出し抜いて彼女の興味を自分に向けさせようと考えていました(わはは)

基本的に普通の高校の演劇部には男子生徒が少なく、僕の学校も例外ではありませんでした。しかも、所属部員も少なく、男女合わせて5人だけの部活でした。確か、記憶が間違いでなければ下級生がいなかったので、このままだと廃部になる恐れがあったような、なかったような……。まさに、学園ドラマにありがちな展開。

そこで、彼女は部の存続をかけて(?)入部希望者を募っていました。

とはいえ、そこは演劇部。特に僕の通っていた高校の演劇部は普通の演劇部でしたから、誘っても簡単に入る人はいません。演劇部といえば、放課後、校庭にむかって「アメンボ赤いなあいうえお」とか「あえいうえおあお」などの発声をして、下手な演技をしたらぼろ雑巾のようなダメ出しを受ける……みたいなイメージしかありません。演劇に興味のない生徒が入部するなんて簡単ではないのです。

当然、彼女がクラスメイトの男子に声をかけたとしても、入部を希望する人はいなかったに違いありません(記憶があいまいなので少しだけ話を学園ドラマ的に盛ってます)

そして、ある時、彼女が僕にこう言ったのです。

「川口君、演劇部に入らない?」

「入る」

その時、誰が30年後も演出家として芝居の世界で活動し、「コーヒーが冷めないうちに」という舞台で杉並演劇祭大賞をとって、その物語を小説にして出版、本屋大賞にノミネートされて57万部突破のベストセラーを書くことになるとは誰も思いませんよね?(笑)

きっと、この一言が僕の人生を大きく変えたのではないでしょうか?もちろん、この時はまさか自分が演劇の世界にハマるなんて思っていませんし、漫画家を目指して、帰宅後は必死に漫画を描いていました。しかも、その時に書き上げた漫画を週刊少年ジャンプの賞に送ったところ、入選はしませんでしたが、これから期待できるということで集英社の🅼さんという方から連絡をもらいました。僕はいまだに🅼さんの名前を覚えています。30年近く前の話なので、もう、🅼さんは週刊少年ジャンプにはいないかもしれませんね。

担当がついたということで、僕は浮かれていましたが、その彼女への片思いにも溺れまくっておりました。僕はそのあと、担当さんから与えられた課題の漫画を一作も書き上げることができませんでした。僕は高校卒業後、短期バイトでお金を稼ぎ、すぐに上京し漫画家を目指しました。

この時、僕の目標に演劇はありませんでした。とにかく漫画家になりたい!その一心で上京したのを覚えています。

しかし、上京しただけで漫画家になれるものではありません。当時、高校を卒業したばかりの19歳。まずはアルバイトをして生活していくことで精一杯の日々が続きました。たまたま借りたアパートの隣に新聞の専売所があり、そこで新聞配達のアルバイトをすることになります。このアルバイト先にいた三年間、結局、一作も書き上げることができませんでした。

だんだん、不安が強くなります。その時にはもう集英社の担当さんとも連絡を取らなくなっていました。チャンスをつかめなかった絶望感。一人で黙々と机に向かっているためか、孤独にも心を削られていきます。なにより、一番つらかったのは描いても描いても、自分の作品を面白いと思えないことでした。

そんな折、高校時代、同じ演劇部に所属していた仲間が東京にいて、一緒に芝居をやらないか?と誘いを受けます。なんとなく、漫画家を目指すことに疲れていた僕はこの話に飛びつきました。なにより、孤独から解放されると思ったからです。それで、まずは仲間を集めないといけません。僕は池袋にある某演劇学校の夜間に入学します。夕方の新聞配達を終え、その当時住んでいた大宮の自宅から池袋まで通うことになりました。そこで出会った新しい仲間も加え、東京に来て初めての公演をやりました。

劇場の名前は忘れてしまったのですが、田端駅にある劇場だったかと思います。

タイトルは「テラ・フォーム」

某漫画のタイトルそっくりですね?(笑)この作品は、当時、好きだった劇団新感線の「星の忍者」という作品のパクリで、織田信長が本能寺の変で死なずに全宇宙の制覇に乗り出すという今の僕からは想像もできないほどのコテコテのSFスペースアドベンチャーでした。いやー、今思い出しても(思い出せないんだけど)、どうやって舞台の仕込みをやったのか、恐ろしいほどに覚えてないんです。当時はスタッフもみんな素人で(笑)、誰が照明仕込んだんだろ?(ガクブル)受付は?え?そもそも劇場費用誰が払ったの?僕しかいないんだけど、覚えてないんです。とにかく、新聞配達やりながらだったから、四日間寝てないとかあったし(遠い目)恐ろしいほどに「若い」だけで突っ走ってました。でも、それが楽しかったというか、机に向かって黙々と孤独に耐えてるより、僕には寝る時間を削ってでもみんなでワイワイやってるのが性に合ってたんですね。

おそらく、この時の大変だけどみんなで一つのものを作り上げる、という体験が僕に演劇の道を歩ませるきっかけになったのだと思います。それから、まるきり漫画を描かなくなりましたからね。

それで、どうせ芝居をやるなら、と僕は埼玉の大宮の新聞専売所から世田谷の新聞専売所に勤務先を変えることにしました。実際、新聞配達って(今はどうか知らないけど)、経験者はどこでも即採用だったんです。しかも、好待遇。引っ越し費用も出してくれるし、住居も与えてくれますからね。お金のない僕には新聞配達は最強のスキルでした。

この世田谷の新聞専売所で働きながら芝居をやるという生活を22歳から29歳まで7年続けることになります。

最初は「南風」という劇団名で、その次が「アンテナ小僧」、そして「音速かたつむり」

すべて、この7年間で生まれた劇団名です。音速かたつむりになってから、さらに芝居の世界へのめり込む為に僕は世田谷の地を離れるのですが、ここからが僕の借金地獄、波乱万丈、大苦戦の時代となるのです。

 

長くなってしまいましたね。続きは、また、次回ということで。

川口俊和でした。